2005年11月アーカイブ

2005年11月30日

20代はラグビーに夢中だった

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私の24歳の誕生日の、ハミのプレゼントはラグビークラブの申込書でした。
私は昔からラグビーが好きで、してみたかったのですが、学校のクラブにはラグビーがなく、その後は職人人生、見るだけで我慢していました。そんな時、このプレゼント。うれしくてすぐ申し込みをしました。入ったクラブはのっぺラボウズという草ラグビーチームで、西荻窪のすし屋の常連が作ったチームでした。のんべいが作ったホドホドラグビーをエンジョイする程度のものだろうと考えていたら、これが社会人が趣味でやるレベルではなく毎週猛練習の連続、ヘドは出る、足はつる、さぼろうとすると電話はかかるし、迎えに来るで学校のクラブなみなのです。月曜日は体中筋肉痛で仕事にも支障をきたすありさま。それでもやればやるほどラグビーの虜になってゆきました。私のポジションはNO11のウイングです。足が速いのでこのポジションを任されたのですが、決して得点力のあるウィングではありませんでした。ただディフェンスには自信があり、タックルに命かけてました。
メンバーは雑多で、鉄工所のおやじ、特許庁の職員、ファイト一発のCM撮ってるカメラマン、一級建築士、家具職人、お金が貯まると海外を放浪する日雇い労務者、東大の学生など色々な人種が集まってました。皆懸命に走ってました。
夏の2泊3日の山中湖の地獄の合宿は午前も午後も練習、練習、夜は筋トレ、遊びの粋は完全に越えていました。
そのかいあってチームは徐々に強くなり、私がお店を出し日曜日休めなくなりチームをはなれた後、都のクラブチームの大会で準優勝する強いチームになりました。ただその時のレギュラーは大学でラグビーをやっていた私の知らないメンバーで、一緒に走っていた雑多な連中は裏方をやっていました。良い時にこのクラブでラグビーが出来たなあとおもいました。ヘタな私でもレギュラーでやれた時期に。
今はテレビで見るだけですが、ラグビーは一番好きなスポーツです。近くに神戸製鋼とワールドの練習グランドがあり、ラガーマンのお客さんも何人か来られます。そんな時ラグビーのことを話すのが、大好きなわたしです。

2005年11月29日

家路の途中

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夜、チャーを連れての家路の途中、クリスマスのディスプレイが街を飾り付けています。
マンションのベランダをイルミネーションで飾り付けている家も何軒かあります。
写真はファション美術館のホールとスペイン階段を写しました。六甲アイランドには有名な建築家の設計した建物や風変わりな建物が多いのです。これはUFOみたいです。
神戸の旧居留地では阪神大震災の鎮魂のためにルミナリエが始まり、多くの人が訪れます。それに比べ、ここ六甲アイランドは夏に比べ人の往来がへります。初めてここを訪れた人はゴーストタウンのようだと言う人もいます。確かに特に冬は六甲おろしが吹いて寒々としています。商売をするには厳しい場所です。
ここでル、ボナーは13年つづけることが出来ました。これからも二人で鞄を作り続けれる間はここに居ます。多くの顧客に支えられてきょうまでつづけられ、これからも顧客を裏切らない鞄作りをしていこうと思っています。
人影少ない六甲アイランドにあるル・ボナーですが、それでも12月は1年で一番多くのお客さんが来店してくれます。ブランド品ではなくマイブランドのオリジナルの革製品を、愛する人にプレゼントするために。
幸福の手助けをさせてもらえるル・ボナーの12月です。メリークリスマス。

2005年11月28日

私の親父

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私の親父は森林関係の研究をする公務員でした。人付き合いの悪い性格が災いして、最初は県庁に居て、そのあと林業試験場に行き、最後は親父のために作ったような緑化センターの初代所長という肩書きで公務員を終えました。親父は品種改良と害虫の研究を主にしていました。品種改良で思い出すことは、芋ほどの大きな栗を長年かけて作ったことがあり、それを実験台として食べたことがありました。これがひじょうにまずく、マロングラッセにしたら何とか食べれるのではと試してみても、やはりまずいものはまずく、結局実用化されませんでした。ハンドボールほどのイガイガが育つ栗の木は今も夜久野高原の緑化センターの森にあると思います。害虫研究では、親父の研究室に数えられないぐらいの虫の入っている試験管があったことがおもいだされます。天橋立に行ったとき、松くい虫が大発生し天橋立の松が危険にさらされた時、陣頭指揮をとって駆除し被害を最小限に抑えたと自慢気に話していました。
怒るとメチャクチャ怖い親父でしたが、休みの日には弁当を持って家族であちこちの山に登りました。行きたくなくても親父が行くと言えば行かなければならない絶対君主のような親父でした。そんな親父が死んで15年になります。
勉強嫌いの私は親父の思い描いた理想の息子とは正反対の人生を生きてきたように思います。親不幸な息子でした。
私の息子は、高校時代担任の先生に親の後を継いで鞄職人になればいいのにと言われていたのに、不思議な事に私の親父と同じ森林関係の研究者の道を進んでいます。
息子が学会で論文を発表するのを親バカの私は聞きに行ったことがあります。その時私は私の親父のことを思いました。もし生きていたら孫のこの姿を一番喜んだのは私の親父であったと思う。
親父は普段はいつも作業着を着ていましたが、出張の時はスーツに、冬は誂えたウールのコートを着て出かけて行きました。お土産はいつもハイクラウンチョコレートでした。
そのコートを今レトロ好きの孫が気に入って着ています。誂えた年が内ポケットに刺繍されていて、昭和31年とありました。私が生まれた年に誂えたコートでした。

2005年11月27日

鞄を作り始める前に

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私は鞄を作り始める前に図面のような絵を書きます。
デザイナーはイメージをスタッフに伝えるためにデッサンのような絵をまず書きますが、私の場合、サンプル製作を自分でするので、イメージを人に伝える必要がなく、絵は実際のバランスを見るために書きます。4分の1で正確に書くように心がけています。それを何度か書き直して、それから型紙を起こします。絵の段階の鞄は100以上あります。いつか形にしてあげたいと思ってます。
型紙になって1度は作ったことのあるものは数百はあると思います。ただ型紙を残しているのは100ちょっとです。財布などの小物は別に100ぐらいはあると思います。
ル・ボナーは統一感がないと言われることがあります。そのとおりです。
ただそれでいいと夫婦二人思ってます。ハミとわたしで作りたい鞄のタイプが違うし、好きで鞄を作っているので、企業ではないので、我がままな鞄作りを通していこうと思ってます。
ハミはドイツのシュリンク、カーフが好きで、このカラフルな革を生かしたバックを次から次へと作っています。それに比べて私は少しスランプ気味。そのため店内はカラフルなシュリンク、カーフ花盛り。私も頑張らないといけません。

2005年11月26日

ブッテーロという革

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ブッテーロという革は、イタリアのワルピエという家内工業に近い小さなタンナーが作っているタンニンなめしの革です。有名なブランドではエトロ、トッズなどが使ってます。
革の部位はショルダーを使ってます。ヨーロッパの革はステア(成牛)の場合背中とお尻で分けます。背中とお尻の皮が性格が違うので、違ったなめしをするため原皮の段階で分けるのです。カーフ(生後6ヶ月まで)の場合はまだ若く性格の差が少ないので分けずになめします。アメリカの原皮は肉のついでのような扱いのため、お腹から背中を一気に割るため
性格の違うお腹と背中の半分がつながった半切という形になります。日本でなめされる革は大部分アメリカ原皮を使ってます。
ブッテーロという革には特別な思い入れがあります。私が始めて出合ったヨーロッパの革であり、今でも一番いいタンニンなめしの革だと思ってます。裁断するとき、包丁を革に入れると、ブッテーロの場合吸い付いてくるような感じがあります。他のタンニンなめしの革はパカっと開くような感じです。この違いはなめしの違いだと私は信じています。
この革はキズは付きやすい革ですが、歳月がそのキズを隠してくれる、復元力のある革です。
ブッテーロで作ったブリーフを買ってくださったお客さんが、川原のジャリ道で転んで、鞄の表面にジャリがめり込んだようなキズが付いてしまいました。見た時、これは治らないと思いました。それが何ヶ月か過ぎた後見てみると、キズは残っているのですがあの悲惨な状態からくらべると許せる、思い出のひとつのような模様として変化していました。
ブッテーロの復元力を実際に感じた出来事でした。
私はブッテーロをこれからも大事に使って行きます。大好きな革ですから。

2005年11月25日

我が家のビーちゃんは絶好調

昨日は久しぶりに、我が家のビートル68年式で遠出をしました。車検帰りのビーちゃんは絶好調。始動一発で目を覚まし大きなエンジンの音を響かせます。環境問題が厳しい折、肩身を狭くしながら?300キロほどの走行距離を、ビーちゃんをなだめすかしながら走り出しました。
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.高速道路は80から90キロで巡航します。120キロぐらいは出るのですがエンジンが壊れそうな悲鳴を上げるので、そこまではあまり出しません。4速が高速用で下道では3速が大部分です。タイヤの巾が145しかないので、見た目空気抵抗の少なそうな形をしているのですが横風で左右によく揺れます。
高速でよく止まった過去の記憶がトラウマになって、今でもすぐに路肩に避難できるようにキープレフトの癖はなおりません。ちなみに68年式のワーゲンにはハザードが付いていません。ドア窓から手を出して後続車に知らせます。
サービスエリアで休憩していると、若者が近寄ってきました。何か言いがかりでもつける気かと思いきや、綺麗なビートルに乗っていますねと褒め言葉。彼はグローリー、ビートルに乗っているとの事。1978年式のドイツ本国で作った最後のビートルをそう呼びます。
古い車に乗っている人間は、その車に金では買えぬ価値を勝手に見出します。私もその一人です。若者のビートルは完全にオリジナルで、そのためボロボロだそうです。そんなことはないでしょうと若者のビートルに近づくと、確かにひどい。だが若者よ、貴方は偉い。
私のビーちゃんはボディーは全塗装、エンジンは新品のメキシコ製、足回りも総とっかえ、整形美人なのです。でもそれは言わずに、サービスエリアを後にしました。
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ハミはビーちゃんの助手席に乗るようになってから、うたた寝をしなくなりました。80キロ走行で最新の車の160キロよりスリルを味わうと乗った人は言います。褒め言葉と受け止めて、ハミも一緒に愉しんでいるのだと信じています。
今回のドライブで、私は自信がつきました。夏以外はレンタカーを借りなくても、このビーちゃんで遠出ができると。今度は尾道に行こうと思っています。

2005年11月24日

朝来へドライブ

今日はハミの要望で、朝日新聞で日本のマチュピチュとして半分冗談で紹介された、私の故郷、朝来にある竹田の城跡に、チャーを連れてビーちゃんに乗ってドライブです。
竹田の城跡に行くのは小学6年の時以来37年ぶりです。
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城壁のすぐ傍まで車で行けるとは知らず、下から登って着ました。結構へばりました。
素晴らしい風景です。遠くの山々が水墨画のようです。
空気は冷たいけれど優しい感触です。
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その後神子畑のイチョウの木を観に行きました。
夏に来たときに見つけたのですが、年をとったイチョウだけの特徴である、枝からオッパイのような部分がいっぱい下がっているんです。そのイチョウを見ると拝みたくなる神々しさを感じてしまうのです。そのイチョウは銀杏の実がなっていたので、女性でした。合掌。
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最後に、多々良木にある芸術の森美術館に。彫刻がいっぱいあり見てて楽しいのですがそれ以上に石を途方もなく積み上げたダムが圧巻です。
充実した休日でした。

2005年11月23日

ダレスを製作中

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ダレスももう少しで完成ですが、並行して他の鞄も作っているので大忙しです。
今,ワクと本体をつなぐ部分の手縫いをしていますが、手縫いはいつもながら時間を消費します。
8個作って4個はお店に並べようと思っていたのですが、作る途中で買い手が決まって、お店に並ぶのは黒のブッテーロだけです。嬉しいやら、淋しいやら。
時間に追われると、焦ってしまうのが私の悪いところなので、焦らず作ります。
太ダレスの定番で使っている錠前を作っているイタリア、OCS社が今年の初めに解散し、ある在庫を使ってきましたが、在庫も残りわずかになりました。新しく他の錠前を捜すか。オリジナルで作らないといけません。悩みの種です。
明日も休まず製作に没頭したほうが良いのかも知れないけれど、明日は前々から計画していたことがあるので休みます。週に一度の休みです。リフレッシュしないと。
日本のマチュピチュに行ってきます。

2005年11月22日

安藤忠雄氏の建物

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私は安藤忠雄氏が設計した建物に、住吉の長屋がマスコミで紹介された頃から興味があり、現代的でありながら日本の美意識を具現化した建物に大いなる刺激をうけました。
13年前お店をここに出す事にした最大の理由は、安藤忠雄設計事務所が設計した建物にお店を出せるという事でした。一番安藤建築らしさが表現されていると、私が思ったスペースを借りるために、建築途中から下見に行き、この場所をかりました。なけなしのお金をかき集めての出店だったので、広さは9坪程度で、現在のお店の広さの半分以下でした。この場所に決めた1番の決定打がこのカーブした壁です。
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写真では伝えきれないのが残念なんですが、ほんとに表情のあるコンクリート打ちっ放しの壁なんです。
石をスライスして磨いたような硬質な表情があります。それは13年経った今も全然変わりません。安藤建築以外のコンクリート打ち放しはどれを見てもただのコンクリートです。後で知ったのですがコンクリートを枠に流し込むとき、安藤設計の建物の場合何度も締め付けてコンクリートの密度を高める作業を繰り返すそうです。
他のお店がコンクリートの壁を覆う内装をする中、壁が活きる内装を心がけました。
その年の大晦日の夜、お忍びで安藤忠雄夫妻が愛犬を連れて来店されました。13年間の中で一番ドキドキしたお客さんでした。
今は隣のお店との仕切りの壁を抜いて広いお店になりました。隣のお店の内装をそのまま使わせてもらっているので、お店と工房が統一感のないものになっていますが、目線の先には硬質な文様を持った壁が13年変わらずあります。

2005年11月21日

6年使用の学手風ブリーフケース

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お手入れで6年使われたブリーフケースが里帰りです。
私はこのタイプのブリーフケースが好きです。
ベルトがあるために使い勝手の悪い鞄ですが、このベルトが鞄の型崩れを防いでくれる役目と、鞄本体の傷みをガードする役目を担っています。荷物を紐でくくる感じに似ています。
ル、ボナーのこの学手風ブりーフが他と違う箇所は、まずベルトが一周していることで、上に書いた二点のメリットを強化している事。斜め漉きした原厚の革を二枚貼り合わせたベルトは、細い人ならズボンのベルトに使えるほどしっかりとしています。
それとベルトを通しているループに、下駄を履かしていることです。下の写真で解るように、ベルトの両脇に革を重ねる技法です。この技法はエルメスのボストンバックに使われていて興味を持ち、使っています。鞄本体をガードするという意味でメリットがあると思ってます。ただ相当な厚みになり、ミシンではきれいなステッチが入れれないため手縫いになり、価格が高めの製品でないと使っていません。
あと、多くの学手風ブリーフの場合、内貼りをせずに一枚革で床部分をそのまま見せていたり、内貼りに生地を使うものが多いのですが、ル、ボナーではステア革かピッグスキンを内貼りに使っています。三層仕切りになると、表に使う革の倍ぐらいの革が内貼りに使う事になるのですが、革で内貼りをしたほうがいいと思ってル、ボナーではそうしています。
今ハミとふたりでダレスとブリーフ、キューブを作っているのですが、それが完成したら久しぶりにこの学手風ブリーフを作ろうと思っています。今回の改良点はベルトの位置を少し内側にすることと、ショルダーの取り出し位置を変えること、それと錠前を替えること。
特に錠前を何にしようか、今思案中。
使用後の、ブッテーロで作った鞄を見るたびに、ブッテーロという革は復元力のあるいい革だとつくづく思います。ル、ボナーにとって大事な革です。

2005年11月20日

私のメガネ

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私はメガネが好きです。ただ勉強をあまりしなかった事が幸いしてか、目がアフリカの人なみにすこぶる良く、メガネとは無縁の45年間でした。
それがここ2,3年遠視が進みメガネを使うようになりました。
その間作ったメガネは5本。作り過ぎと言われますがそのとうりです。ごめんなさい。
今4本のメガネを使っています。写真の上から
自宅で新聞を読んだりする時につかいます。革まきはオリジナルです。
その下は手縫いなどの細かな仕事をする時に使います。小さなメガネで、万年筆より少し大きめのケースに入ります。アルミのケースに革巻きしました。
その下のメガネが一番よく使うもので、仕事中はこれをかけています。
一番下のは外出用で中遠両用で、ドイツ製のおしゃれなメガネです。
これからもメガネは買って行くと思います。
そんなにいらないと言われればそのとうりです。
でもまた買ってしまうのです。
私は10代の頃からジョン、レノンが好きで、彼のような雰囲気を持った大人になりたいと思っていました。しかし現実は厳しく30代前半に店をつぶした時の心労が黒髪の長髪をハゲオヤジに変え、神戸での飽食の生活が50キロ台のスマートな体型をデブな中年に変え、
ジョン、レノンになるのを諦めました。諦めたときにメガネの必要な人になりソコだけジョン、
レノンしてます。
後から分かった事なんですが私の乗っている白のビートル68年式はビートルズのアビーロードのアルバムの写真の4人が歩いている後ろに止まっているビートルと同じ年式、同じ色なんです。それも当時ジョン、レノンが乗っていたくるまなんです。他人が聞けばどうでもいいことなんでしょうが、ジョン、レノン好きの私にはその偶然に感動で震えました。
ナチュラルな生活に憧れながら、色々な欲をすてきれない私です。

2005年11月19日

チャーの恐怖

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チャーはカメラを向けると怒りの表情にかわります。その顔がこれです。魂を抜き取られるとでも思っているのか、カメラに向かって本気で怒りだします。
あと、仕事場でハミと今日はチャーをお風呂に入れようなどと話していると聞き耳を立てていて、家に帰る時間になってもなかなか帰りたがらず、なだめすかしてなんとか家までたどりついても家の中に入ると私に食ってかかってきます。格闘の末風呂に入れると今までの凶暴なチャーは影を潜め、哀願するような切ない鳴き声に変わり、お願いだからお風呂だけは許してとなきつづけます。それほどお風呂は嫌いです。
それ以上にチャーの最大の恐怖は獣医さんのところへ行く事です。チャーの主治医のオタニ動物病院に車で行く時、チャーは病院の10キロほど前から指定席のリアシートから立ち上がり私の肩に前足を置き声も出せずに震えだします。ただの予防注射に行くだけなのに
彼には幼い時の恐怖の体験が甦るのでしょう。それはオカマになった手術です。
彼の前足から伝わる震えは笑ってしまうほどの彼の恐怖のほどを伝えます。
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弱虫のくせに闘争心丸出しのチャーとは違って、前に飼っていたクークーはほんとに優しい犬でした。彼女はいつもいっしょに飼っていた猫のあかねとその娘のヒラメと犬小屋で仲良く寝ていました。クークーを留守番させて家族で泊りがけの旅行に行った事がありました。
家に帰ってみると家の中はグチャグチャに荒らされていて、泥棒に入られたのです。
近所の人は誰も気付かず、どうやらクークーは泥棒さんと仲良くなったようで吠えもしなかったようです。結局金めのものはなにもなく、グチャグチャにされただけで何もとるものがなくくたびれ損だったようです。。そのクークーは今は海の見える芦屋霊園の犬の形の石造のペット共同墓地に眠っています。

2005年11月18日

コバを磨くとは

コバ処理をしているところ
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メールでル、ボナーの鞄は本磨きですか?と言う質問がありました。
私は何を指して本磨きというのか解らないので、私なりにコバ(革の裁断部分)磨きについてお話します。
革のコバを処理する方法として大きく分けて、ヘリ返し、バインド、コバ磨きの3つに分かれます。
へり返しは一般に売られている財布などによく用いられる方法で、繊細な感じにみえます。ただ薄く漉かないと折り返せないので、カドの部分が擦り切れた場合ごまかすことはできても修理は出来ないのでル、ボナーではあまりやりません。
バインドは、テープの革が別部品なので、交換修理が可能なので使う事があります。
コバ磨きはよく使います。コバ磨きには染料磨きと顔料仕上げがあり、究極の磨きと言われるのが蜜蝋と熱ゴテを使った染料磨きですが、私の知っている製品でこの磨きをしているものは知りません。私たちも一時この磨きを使っていたのですがあまりに手間がかかりコストに反映することが出来ず今は使っていません。主にル、ボナーでは染料磨きを使いますが顔料仕上げのものもあります。染料の場合コバ色が黒か濃い茶になるので、カラフルな色の革のコバには向かない事があり、その時は顔料をつかいます。どちらにしても下処理に手をかけると美しく仕上がります。ただ顔料を使う場合厚塗りは避けます。早いうちに顔料がひび割れて取れてしまうからです。
切り身の処理は早かれ遅かれ痛みます。お手入れ、修理をしてくれるショップで買えば磨き直してくれるので心配いりません。美しいと感じれるものが良い処理です。手をかけた処理です。
ル、ボナーでは製品がより良く見えるようなコバ処理を心がけています。

2005年11月17日

休日の私達

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休日は特別な用事がない時は、いつもチャーを連れて夫婦で六甲アイランドの南端にあるマリンパークまで散歩します。今日は空気が冷たく澄んでいて空は雲一つない晴天。
住宅地を囲うように遊歩道が周回し一周すると5キロになります。遊歩道の両側に色々な木々が植えられていて、今日はオオシマザクラの紅く紅葉した葉が目につきました。
マリンパークでは必ず釣りをする人がいます。ただ3,4年前まではほんとによく釣れたのですがここ数年魚が少なくなりました。ハミと娘のモモも一時釣りに凝っていて、朝の5時頃からマリンパークに行き、結構大きな魚を釣っていました。
その後ハミは水彩画の教室に行き、私は車の手入れかお昼寝をして夕方からの戦いに備えます。実は私の一番の趣味は囲碁を打つ事なんです。毎週木曜日の午後5時から10時の間シェラトンホテルの一室を借りて囲碁をうっています。私がこの囲碁クラブにはいって5年になりますが、メンバーのなかで一番弱くて実力は一級程度です。少しでも上をめざしてがんばっているのですが、なかなか勝てません。しかし囲碁というゲームはほんとに面白い。私は模様をはり大きな夢を碁盤に描く碁が好きです。実力が伴わないと勝てない美しい碁です。だから私はなかなか勝てません。
今日も1勝2敗で負け越しました。

2005年11月16日

昔、ファーラウトというブランドがありました。

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15年ほど前、私は鞄ブランドの企画をしていた事があります。
鞄職人としていき詰まり、車工場の期間従業員のアルバイトなどをしていた時、知人から鞄ブランドに勤めてみないかという話しがあり、私は東京の広尾にあるその会社に面接にゆきました。その会社の名はファーラウトといいデザイナーの林ヒロ子さんを中心にヨーロッパでも通用する鞄ブランドを作ろうと立ち上げた会社でした。
林さんは若い頃ヨーロッパやニューヨークでモデルをしてて、その後ヨーガンレールの革製品のデザイナーを経て、ファーラウトのデザイナーとして独立した女性です。
その林さんのデザインを具体化しパターンを起こしサンプルを作り製造工場(メーカー)と打ち合わせをするのが私の仕事です。その時一緒に企画の仕事をした先輩が金田さんで、鞄作りの幅を広げる意味でも、一般の鞄業界の諸事情を知るうえでも勤めたことは有意義な経験でした。
ファーラウトは商社から資金が出て、社員15人の小さな会社でしたが豊かな仕事環境が豊かな発想を生むという考えで資金を贅沢に使いました。
写真のお店はファーラウトの1号店で日本橋高島屋の1Fにありました。その後6店舗の直営店を出しましたがどの店も贅沢な内装でした。会社のショールームの内装はそれ以上に
すごいもので床にはイタリアから輸入した大理石を敷き詰めてました。
贅沢に材料を使い、手間のかかる鞄作りをし、理想を追い求めました。
しかし、スポンサーの商社が倒産し、いっしょにファーラウトも解散しました。
その後、林さんはファーラウトのメンバーの半数を連れてトモローランドで新しいブランドを立ち上げようとしましたが上手くいかず一人イタリアに旅立ちました。
私には大きな経験であったし、夢のような楽しい時間でした。
林ヒロ子さんがワールドでファーラウト、ビヨンドというブランドを立ち上げたという話しを聞きました。がんばってください。夢を追い求める林さんは素敵です。

2005年11月15日

鞄職人になりたいと思っている人へ

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鞄は、靴や洋服に比べて基礎技術の鍛錬をあまりしなくても作れます。簡単に作れるだけにプロでやってゆく上で逆に大変なんです。
私は19歳の時、手作り鞄のグループに加わり鞄作りのスタートをきりました。
その後、21歳で結婚し独立してオリジナルの鞄の卸しを始めました。
手作りの、技術の幅のない鞄は色々な制約を受け、生活は苦しいものでした。
その頃は朝の8時から夜中の2時まで働いていましたが、それでも貧乏でした。
その後多くの物づくりをする人たちと出会い鞄作りの技術の幅を広げることで、
何とか30年続けられたのだとおもいます。
鞄職人の大半は問屋の製造を担うメーカーの組上げを歩合でやっています。
月に一人で200個ぐらい組上げれないと食べていけません。
私も一時やっていましたが量産のシステムを把握していないと、苦しいだけで無理があります。しかし大半の鞄職人はこのシステムに組み込まれています。
私たちのような鞄職人は隙間産業のようなもので、食べていけてるのはほんの小人数だけです。絶滅危惧種みたいなものです。
私も一時事業欲に燃え鞄職人になりたいという若者を何人か雇いいれていた時期がありました。しかし私に経営能力がないことを痛感し、今は夫婦二人でやってます。
鞄作りの教室に通って一生懸命覚えれば、センスの良い人なら月に2,3個の素晴らしい鞄は作れるようになると思います。しかしそれでは食べていけません。
一点一点鞄を作る作業は楽しいものです。しかし芸術作品ではないので、どんなに素晴らしい鞄を作っても数十万円です。それもブランドでない私たちの作るものは手間に比例します。手間に比例してつけた値段でもお客さんが納得しなければ一銭にもなりません。
それでも鞄作りに夢を描ける人は頑張って欲しいと思います。
お店に遊びに来たら、アドバイスは出来ると思います。

2005年11月14日

夜のル、ボナーにて

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静かな街で、ゆっくり時間が過ぎてゆきます。
月に一度、仕入れで東京に行くのですがすべてのペースが速く感じてしまいます。
この大都市で走り続けていた自分が居たのだと、第三者のように思い出している自分がいます。今こうして東京から距離を置いた地でお店を出したことが、ほんとに良い選択であったと思います。東京にお店を出していたら、情報も早く得れるだろうし、マスコミに露出する度合いも多くなると思いますが、時代の流れに右往左往していたような気がします。
流行を気にせず、自分たちのペースで好きな鞄を作り、それを認めてくれる神戸という街。
神戸の人は東京を意識しない独自の文化を持っています。それが心地いいのです。
鞄作りで言えば、東京では黒、チョコ,茶中心でカラフルな色は挿し色ですが、神戸ではカラフルな色から売れていったりします。綺麗な色は作っていても楽しいんです。
街を歩いていても綺麗な色がいっぱいです。東京を歩くと印象は無彩色の黒です。
そんな居心地の良いこの街に根付いて、ゆっくり鞄を作ってゆきます。
まだ13年の新参者の私です。よろしくお願いします。

2005年11月13日

あの頃はみんなでキャンプ

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30代の私は時間がとれるといつもキャンプに行っていました。
貧乏だったあの頃、お金を掛けずにリフレッシュするのにキャンプは最高のチョイスでした。
写真の時は珍しく贅沢な旅行で6人宿泊予定で貸し別荘を予約し、11人で行きました。
場所は信州、白樺高原。昼はそれぞれ勝手に遊び夜は皆でドンちゃん騒ぎ。
一番チープなキャンプは卓ちゃんと卓の弟の周とアルバイトのイガの4人で行った12月31日からの奥蓼科での越冬キャンプでした。所持金は4人で1万円弱。燃料費が安くて済むのでイガのぼろジープに乗って下道でいざ奥蓼科へ。通行止めの道の先の先、零下15度の別世界へトリップ。装備はディスカウントショップで買った5000円のテントと1900円の寝袋の二重仕様。夕食は味噌味に餅、白菜、サザエの缶詰、あるもの何でも入れて山賊鍋。食べた後は花札して負けたら罰ゲームは、零下15度の雪原で雪にパンツさげたお尻を押し付けて100数える。朝、テントから外に出ると数え切れないお尻の形が雪原にありました。夜中、二重寝袋のかいなくあまりの寒さに目を覚ますと隣で酔って寝ているイガは寝袋も掛けずにグーグー熟睡モード。こいつは豪傑かバカだ。隣のテントからは寒さを紛らわすための歌が聞こえてきます。
次の日、帰り支度をしていた私たちの前で、和歌山ナンバーのカップルを乗せた新車のエスクードがスッタッグ。浮かれ気分で通行止めの雪道を走るからだ、ザマア見ろという思いでしたが、一時間ほどしても脱出できず、スタッグ脱出ベテラン4人組は助けてあげる事にしました。10分もしないうちに脱出成功。その後卓ちゃんの長々とした説教。お礼にとお金を差し出すカップルに金なんかいらないとまたまた説教。ほんとは金欠キャンプの私たちには喉から手が出るほど欲しいのにやせ我慢。それでもというのでしかたなく(?)貰ってあげて一万円をダッシュ。この不労所得で帰りは露天風呂と食堂での食事。
2年前の夏の終わり、岐阜の高山のその奥でキャンプをして以来していません。あの時も楽しかったなあ。私は工事用のブルーシートをターフとして使う名人なんです。

2005年11月12日

私の尊敬する1970年代のブランド

私は尊敬する職人が多くいた60から70年代のヨーロッパのブランド、特に下記の3ブランドは色々な意味で影響をうけました。
グッチ(1).jpg
グッチ一族が経営権を持っていた頃のグッチのハンドバックです。私がいちばん注目したのはへり返しの厚みです。これだけ革を厚いまま綺麗にへり返すのはこの時代のグッチが一番です。日本の職人も綺麗なへり返しをしますが革を薄く漉いてへり返すので耐久性が劣ります。フィレンテェ職人の繊細な力仕事です。ステッチの糸はコットンでショルダーの部分のステッチはすぐ擦り切れてしまいますが、ヨーロッパ鞄の伝統を守って使っています。
この時代のグッチはエルメスにも劣らない存在感があり色香がありました。
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バレクストラはメンズバックを作る上で、バランスとセンスの良き教師です。かぶせのブリーフのサイズバランスは絶妙だと思います。そんなバレクストラが一番輝いていたのが、70年代であったと思います。私が二十歳の時バレクストラのシンプルでありながら高級を醸し出すソフトアタッシェのプルミエールを見て感動したのが、今でもこうして鞄作りをつづけているはじまりでした。今でもプルミエールは作っていますが30年前に見た時の感動はありません。何かちがうのです。写真のブリーフも黄金期のものです。革はフラスキーニのボックスカーフのようにおもいます。
エルメス(1).jpg
エルメスが高級鞄の世界基準になる前の一品です。エルメス的でないデザインですがハンパではない技術力を見せつけてくれます。ゆるみがまったく感じない緊張感のある鞄で恐れ入ります。この時代より前のエルメスの鞄を何度も見てるために、私にとってエルメスは特別なんです。
1970年代、ヨーロッパのほんとの高級鞄を手に入れることの出来る人は限られた人で、
その人たちを満足させるに十分な鞄がありました。今は色々なブランドの鞄が簡単に手にいりますが、オーラを感じる鞄は逆に見つけにくい時代になったように思います。
ファッションの名の下に大量消費されて職人の手仕事も宣伝広告のためで、ほんとに大事な事だとは思っていない。
そんな時代だから、逆に私たちのような個人の鞄職人が高い意識を持って鞄作りをしていかないとと思う今日この頃です。

2005年11月11日

ショルダーパパスについて

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ショルダーパパスはエッティンガーの真似をしたのかという問い合わせがありました。
エッティンガーというブランドを知らなかった私はインターネットでエッティンガーの鞄を見てみました。確かによく似ています。
ショルダーパパスは私自身が普段使うために、4年ほど前に作ったもので、アディダスカントリーの靴底をイメージして作ったオリジナルのデザインです。
ル、ボナーは敬意を払っている鞄は真似することもあります。エルメスの何点かは真似をしました。ケリー、バーキンなども作ってみましたが、エルメスとおなじ素材でエルメスの上級レベルの仕事をした場合、どうしても高いお値段になってしまうので今はやめています。
プリムを真似たキューブは、エルメスしか使っていない、いせ込み技法を適正価格で持っていただきたく思いつくりつづけています。キューブはプリムよりいせ込みを強くするためいせ込みに3工程使っています。ブリーフキューブは価格を抑えるため2工程です。それでもエルメス並のいせ込みです。
鞄のデザインにパテントはありません。見比べていいと思うものを買われる事を進めます。
ショルダーパパスは初めは英国資本のバングラキップを使っていましたが、なじみがイマイチだったので、今はイタリア、バトラッシュ社のミネルバボックスを使っています。
自分で言うのもなんですが、良い鞄だとおもいます。
ル、ボナーの鞄で定番として長く作り続けているものも、改良し続けています。
細ダレスも17年作り続けている定番ですが、今回も耐久性をあげるため二つの改良をしました。前にも増して、ル、ボナーを代表するメンズバックになったと思います。
良い鞄を作るという事が一番大事な事で、真似をされる、真似をするというのは小さなことに思えます。

2005年11月10日

あの頃はいつもジープ37に乗っていた

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東京の聖跡桜ヶ丘に始めてお店を出した頃に、このジープJ37を手に入れました。
子供の頃、親父が林業試験場の仕事でこの車に乗っていて、その頃から乗りたい車でした。私の車選びはエクステリアが五感を刺激すれば、あとはどうにでもなるというものです。私の所有した車で一番好きな車でした。
その後店をたたみ鞄製造卸し業に戻ってもこの車で、営業、仕入れと東京を走り回り
時間が出来ると家族と仲間で信州にキャンプに行ってました。
その頃人生で一番貧乏だった私はこの車を持ち続けることが出来ず、手放してしまいました。今でももう一度乗りたい車です。
アルバイトをしてた卓ちゃんを高校の卒業式の日に校門の前で待ってそのまま陶芸を勉強する京都に送っていた時もこのジープJ37でした。今は鎌倉で陶芸をつづけています。
その時京都観光にとついてきた映画マニアの井坂は、今はポルノビデオの監督をしています。昔の写真を見ると色々な出来事が蘇ってきます。

2005年11月 9日

ル、ボナーの取っ手

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今日は取っ手作りの日でした。
ル、ボナーの取っ手はエルメスの影響を受けた形状をしています。
エルメスだと100万円を越える鞄にしかこの形状の取っ手は使っていませんが、
ル、ボナーでは一本取っ手の場合、なんにでも使っちゃっています。
最初はこの取っ手の肉盛りには硬質ゴムを削って使っていましたが、
革の油分をゴムが吸ってしまって、革のひび割れが早いうちに起きてしまうことが分かり
その後吟面つきの革を重ねて使い、それだと少し硬いので、今は床革を重ねて削ったものに落ち着きました。
取っ手は鞄の顔なので気を使います。
30年の間に色々な取っ手を作ってきましたが、この形状の取っ手が一番気に入っています。取っ手に使うオサエとカンは真鍮を使ってオリジナルで作りました。
部品の一つ一つが丁寧な仕上がりを見せると、鞄本体の組上げにも力がいります。
鞄を作ることはほんとに楽しい仕事です。

2005年11月 8日

山口小学校の楠木

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親父の仕事の関係で、あちらこちらに引っ越した私ですが、故郷はどこかと訪ねられたら小学6年間と中1を過ごした現在の朝来市朝来町とこたえます。
今年の夏、小学校の時からの友達で今は弁護士をしているO君が、庭師の大ちゃんと3人で小学校の担任の衣川先生に会おうというのです。
弁護士のO君と庭師の大ちゃんとは10年前同窓会で久しぶりに会って以来親しく付き会っています。
O君は大阪に弁護士事務所を持って日々ハードに仕事をこなし、大ちゃんは何百年も先まで残る庭を造ろうと汗をかきながらがんばってます。全然違う仕事をしている3人ですが気が合うのです。
10年前の同窓会では、その後二次会、その後小学校の時仲の良かった男3人と美人で美容師をしているひろ子ちゃんと私の初恋の人ヒサ子ちゃんと、5人でひろ子ちゃんの家に押しかけ夜遅くまで話をしました。たのしかったなあ、、、、その数年後美人のひろ子ちゃんは白血病で亡くなりました。
それ以来の故郷です。
先生に会う前の日の夜、お店をハミに任せて特急はまかぜに乗ってゆきました。
生野駅までO君が車で迎えに来てくれて夜はO君の実家に泊めてもらいました。
次の日の朝は雨で、山の上半分は霧で隠れ空気が美味しくて思わず深呼吸。
私の住んでいた林業試験場もその官舎も今はありません。
私がお風呂にいる時間に美川ケンイチのヤナガセブルースをかけて映画の始まりを知らせる町に一軒の映画館もなくなっていました。
それでも朝来の町を歩くと、思い出がアチラこちらから顔をだします。
午前中に先生の家に行き、色々話して、飲んで、食べて午後からはお酒の飲めない私がO君の車を運転して、朝来の観光スポットを4人で回りました。
朝来の森美術館、千年家、ミコバタの精錬所跡、遠足でよく行ったババ山。
静かで幸せな時間でした。最後に、卒業した山口小学校に行きました。
私たちが学んだ木造校舎はなく、鉄筋の新しい校舎が建っていましたが、正門とその横にある楠木は今もありました。卒業文集の表紙の絵は私が書いたこの楠木でした。あの頃は枝がもっと横に伸び葉は青々と繁っていて偉そうだたのに、37年ぶりに見る楠木は少し元気がなさそうでした。
その日の夜,新井の駅から播但線で帰りました。O君と大ちゃんは駅のホームで手を振って送ってくれました。私にとっては幸せな24時間でした。
この年になって思うのですが、思い出は自分の人生のかけがいのない宝物なんだと。
また同窓会をしたいな。

2005年11月 7日

パターンって面白い

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私のパターンの師匠金田さんがイタリアのシホンベルベットを使って作ったベレー帽です。
竜が昇ってゆくような型紙で、同じものを2枚とり、それを縫い合わせるとこの形になります。
このパターンを考えるには幾何学が必要との事ですが、私はこのパターンを発想するきっかけを持っている引き出しの多さに関心しました。
その後、パターンについて師匠から出来る限り吸収しようとしました。
パターンを起こす上で一番大事な事は、デザインを見てより良く見えるようにするにはどうすればいいか自分なりに考え、創造し型紙を起こす事。
シンプルな形の鞄ほどパターンの違いが大きく影響する。
靴は木型によって曲線を作り出します。鞄はパターンと職人の指先のアンバイ加減で曲線を描きます。

2005年11月 6日

ル、ボナーの内縫いの鞄

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ル、ボナーの内縫いの鞄の特徴は、鞄を正面から見た時、正面後面とマチとの間を仕切るタマブチが前を向いてマチが額縁のように縁にみえることです。一般的な内縫いの鞄の場合は正面、後面とマチの間45度の角度にタマブチが見え、正面から見るとマチがやせています。この違いは鞄を実際に比べて見たとき大きな違いがあると思っています。
私は15年ほど前に鞄ブランドの企画として型紙を起こし初期サンプルを作り工場と打ち合わせをする仕事をしていた時期がありました。
その時一緒に企画をしていた金田さんという先輩がいました。
金田さんは元々オートクチュールの洋服を作っていた人でパターンを起こす事に秀でた人でした。金田さんにはパターンが創造する広がりと豊かさを教えてもらいました。
その金田さんがしようとしていた事が洋服の縫製技法を鞄作りに応用する事でした。
特に、いせ込みという技法を鞄で使えたら豊かな表情を生み出すと、力を入れていました。
いせ込み技法とは、スーツの袖と本体を縫い合わせるときなどに使う技法です。
これを鞄に応用する場合生地では計算にいれずにすんだ厚みも計算にいれないと適正パターンが出せず、その上革の固さが工場で量産した時に、豊かな表現を拒みました。
いせ込み技法を使って内縫い鞄を作っているのは、私の知る限りエルメスだけです。
この技法を使うとマチの厚い部分が外部とあたる事になり耐久性を格段に高め、
何より同じ鞄が別物のような豊かな表情をみせる。
私はル、ボナーを始める時、やっとこの技法を使った鞄作りが出来ると思いました。
少しの手間と工夫で手作りだから出来る表現方法を手に入れる事ができます。
手作りで鞄を作っている人には外縫い鞄を得意とする人が多い。内縫い鞄には豊かな表現方法が隠れているので試しで作ってみてください。

2005年11月 5日

フィリップ、デュフォーの時計

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作る人の魂を感じれる物に出会えた時、私は感動という震えを感じます。
フィリップ、デュフォーのシンプリシティーも私にとってはそんな一品です。
ブランド崇拝を卒業した時人は職人の魂の入った一品を求めるのだと思います。
魂のいった一品は魂に比例して高価になります。
しかし、ブランド力に比例して高価になるウソとは違って純粋なんです。
私も来年から二ヶ月に一品ペース位で、自分と正面から向き合って魂の入った鞄を作ろうと思う今日この頃です。

2005年11月 4日

手縫いにつての私考

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鞄好きの人には手縫いの鞄に憧れる人が少なくなくおられます。
私なりに手縫いについての考えを記したいと思います。
手縫いは時計のトゥールビヨンという機構ににています。
懐中時計であった時代には画期的な機構であったトゥールビヨンも、腕時計全盛の現在では複雑な機構のため組上げれる職人が限られ手間がかかり、そのため時計好きの憧れとなっています。
手縫いも、進歩したミシンが出回っている現在、鞄が手縫いである必要はないのだけれど
手間のかかる作業で、手縫いをする職人が少なく希少価値として欲する人は少なくない。
手縫い鞄を私なりにコスト計算してみると、ブリーフケースで30万円前後の価格で作らないとあいません。10万円前後で手縫い鞄を売っていたとしたら、作り手が無理をしているか誤魔化したものだと思う。
私も一時、手縫いに夢中で取り組んだ事があります。その時出来た鞄にどうしても高い値段が付けれずに苦しんだことがありました。その時思ったんです。
妥協せずに手縫いするなら、妥協しない値段をつけるべきだと。その代わり注文したお客さまの満足できるレベルのものを誠心誠意追求する。
手縫いはミシンと違って、運針を二度するようなチェーンステッチになります。
手縫いは右上がりのステッチになり、ミシンは左上がりのステッチになります。
ミシンで右上がりのステッチを縫おうとすると、ミシンの構造上糸が擦れて切れてしまうのです。ただミシンでも菱目打ちをして丸針で縫えば、手縫いモドキになり、素人には判別しにくくなります。
手縫いのステッチは一寸6目、8目までは初心者でもほどほどのステッチが縫えますが、一寸10、11、12、13目と細かくなるにつれてテクニックと精度が必要になります。
テクニックと精度を上げるとステッチは鋭利なものになってゆきます。
菱目打ちの良し悪し、菱切りの研ぎ具合、糸の選択と蜜蝋の含み具合、メリケン針の太さすべてステッチに影響します。
今まででこの手縫いだけは真似出来ないと脱帽した手縫い鞄がありました。
それはエルメスの80年前ほどに作られた横幅60センチほどの大きなソフトトランクで一寸11目のステッチ幅を、その幅より太い麻糸で革、板を突き抜いて縫いきったもので、ステッチ幅と糸の太さのセオリーを無視し、それでありながらステッチは安定した角が鋭利な四角に近い菱形の連続。その手縫いの迫力は今も私の脳裏にしっかり刻まれています。
手縫いからは少し距離をおいている今の私ですが、手縫いをやめてしまったわけではありません。手縫いという作業は非常にワクワクする作業ですから。

2005年11月 3日

アウディーTTでドライブ

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今日の祭日はお店をあけたため、その代替で昨日はお休み。
休日の楽しみは午後のお昼寝。ふとんの中に潜り込んでウトウト始めたらリンーと電話。
電話は店長から。20年来の友人です。
私が東京の聖跡桜ヶ丘に始めてお店を出した時、同じショッピングセンターで別のお店の店長をしていて、今は出世して会社で責任の重い仕事に就いているのですが私たち仲間は今も店長と呼んでいます。
聖跡桜ヶ丘時代はよく遊び呆けていました。私たち家族と店長とアルバイトの卓ちゃんで
お店が閉まってから、次の日もお店があり息子は学校があるのに湘南の海岸まで車で行ってドンちゃん騒ぎ。ほかにもいっぱい無茶をしました。
店長は屈折した性格で、私みたいなノーマル(?)な性格の者と気が合うのが不思議です。そんな店長が横浜から転勤で関西に来て1年になります。
最初は勤務地の京都に住んでいたのですが、京都に適応できず3ヶ月でギブアップ。
横浜に似ている神戸に暮らすようになって何とか発狂せずに今は落ち着いています。
一番気の許せる友人です。腐れ縁は死ぬまで続く様な気がします。
話しを元に戻して
その店長が神戸の端の垂水にあるアウトレットモールに行こうと言うのです。
男二人でドライブです。須磨から垂水につながる国道2号線はオープンで走ると潮風の臭いが心地よく、遠くに淡路島と明石大橋が見えてデートにはベストシーンですが、男二人ではいけません。
アウトレットモールはハリボテの建築が印象に残っただけであとはありません。
ところで、写真のアウディーTTロードスター1,8Tクアトロ6速マニュアル左ハンドルは店長の車なのですが、現代の車の中で私はこの車とアルファロメオ147がすきです。
今まで強そうな車ばかり乗っていた店長にしてはセンスのいい選択だと関心しています。
飽きっぽい店長のことですから、この車も近いうちに手放すと思うので、その時は安く私のものにしようと思ってます。

2005年11月 2日

エルメスという孤高の皮革ブランド

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エルメスは皮革製品を扱うブランドでは別格です。
私もエルメスを研究し多くの影響を受けました。素晴らしいところは多々あるけれど、すべてを認めているわけではありません。
エルメスは他メーカーと違い組み立て段階からは一人一人の職人に完成まで任すため職人の技量の差が製品にはっきり出てしまいます。
若い職人が最初に手がけるのがボーグレネクーシュベルという皮革のためか、作りがいまいちの製品を多く見受けられます。それに比べ貴重品革を使った製品は震えがくるほど素晴らしいものを見ることができます。
また、エルメスは自社製品は全て手縫いと謳っていますが、実は皮革製品の大部分がミシンと手縫いの併用で、オールミシンの物も少なくありません。総手縫いの物は貴重品革に見ることが出来ます。
私はエルメスの素晴らしい部分は、手縫いをしている事より麻糸で美しくミシンステッチをいれる事。厚みのある革では使いにくい、いせ込み技法を使って縫製している事。革の性格を知り尽くしたうえでの贅沢な裁断。そして皮革製品の高級の世界基準を確定したこと。
ル、ボナーはエルメスに多くを学び、影響を受けました。
今、エルメスを卒業し、ル、ボナーの個性を創造しようとしています。見守っていてください。

2005年11月 1日

10年選手のひと時の里帰り

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10年前後使ったブリーフケースが修理でひと時、ル、ボナーに戻ってきました。
糸切れの修理でついでにコバを磨き直し、革の表面についた汚れを取りました。
ベルギーのマシュア社のサドルプールアップを使った鞄です。
色抜けはしていますが革はまだまだ現役です。
お手入れらしきことはされずに10年よくがんばったとおもいます。
少しの間休憩をとったらまた持ち主のもとに戻り寄り添ってがんばってください。
何かあったらル、ボナーに帰ってくれば、持ち主がこの鞄を愛しつづける限り修理します。
ル、ボナーから旅立って月日が経った息子が戻ってきた時、その鞄という息子は私に色々な事を語りかけてきます。

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