2015年11月アーカイブ

2015年11月30日

ALPAの「 KERN-MACRO-SWITAR 50mmF1,8AR」

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クラシックレンズを2〜300お持ちのル・ボナーのお客様が面白いレンズ持ってきたので数ヶ月試し撮りしてみてくださいよと言われた。普通他人の所有するレンズを借りて使ってみるなんて怖くて出来ないけれど、ボンジョルノはその申し出を断る事は出来なかった。私のモノの増殖は多くのモノ好きのル・ボナーの顧客の方々の善意と誘惑によって始まり、その後その呼び水に呼応して増えていく。それにしても昔のレンズたちの質感は私には宝石のように輝いて見える。

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特にその中で一番外観的には好みでないレンズに目が止まった。1958〜69年の間作られたこの伝説のスイスのアルパの「KERN-MACRO-SWITAR 50mmF1,8AR」というレンズは知っていた。それが目の前に有りこれから試し撮り出来るなんて願ってもないチャンス。そのレンズを2つのアダプターを介してα7Rに装着して早速撮ってみました。

操作上でびっくりしたのは無限遠から最短撮影距離までピントリングを3回転ほど回さないと行き着かない。こういう操作は今までしたことがなかったから戸惑った。しかしマクロで撮る時と普通の50mmとしてスナップを撮る時に2つのレンズを交換しながら撮るよりは時間は要しないと思えば苦ではなくなり面白さも感じる。それにしても2つの金属無垢のアダプターも加わって大変重い。

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解放で最短撮影距離で撮ってみました。ケース周りボケの始まりのキラキラ感が独特。30cm強まで寄れる、コシナのアダプターでもっと寄れて25cm。

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F4まで絞るとくっきりしてくる。

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50年以上前に作られたレンズはどれも解放で撮ると靄が広がるようで絞らないと撮れないと思っていた。しかしこのレンズは解放でも抜ける絵が撮れてびっくり。

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見た目はこのズミクロン50mmに純正フードの方がいい感じ。これもF4で撮りました。

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なんとも独特な色気ある絵が撮れる。

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被写体まで20mほどの距離がある場面での開放撮影。ピンがしっかりボールに合い遠景は程良くボケる。

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絞っても遠近感が十分感じられる絵が撮れる。

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古いレンズはこういうのは苦手と思っていたけれど全然大丈夫。

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上がF4に絞って、下が開放F1,8。やはり少し絞った方がモノ撮る時いいかな。撮ったレンズはコシナではない今回お貸し頂いたドイツの本家フォクトレンダーのノクトン。その金属ボディーの質感とレンズの出っ張りにはびっくり。市販のフィルターだとレンズに当たってしまうのでつけれないほど。このレンズはM9に装着して撮ってみよっと。

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これほど撮る事でワクワクしたのは久しぶりだ。この後今回お借りしたこれ以外の5本のクラシックレンズを試し撮りしてみたいと思います。それを参考にこれからのレンズ趣味を充実したものにしたいと思っていますがどうなるか。外観優先思考のボンジョルノにとってこのアルパのレンズは衝撃でした。

何とかレンズも今月中に出せた。

11月は本当にスレスレ ボンジョルノの愛用品。

本当にスレスレ間に合いました。もうやめよかなと思いもしましたが「継続は力なり」の言葉を思い出し、これに当てはまるかどうかはは考えるのはよしてやっぱり続けようと思った次第です。前にも出した品も登場するでしょうが、履歴をチェックするのが億劫なので老人性痴呆症が出てきたボンジョルノと笑ってお許しください。

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スイスのオレオール社の50年代の自動巻最初期の3針時計。元町の水谷時計修理工房のガラスケースの中にあった。オレオール社は創業19世紀の老舗時計ブランド。まだ存続しているようだけれど、機械式は今はもう作っていないみたい。

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裏スケルトンです。この時代にスケルトンはありません。水谷さんが遊びで風防を加工して装着したそうな。こういうの大好きな私は入手したくなった。でも完全非防水だし売れないという水谷さんに、それは分かった上で何とかと説得して諭吉1枚で入手。ただその後使っていてよく止まる。風防がムーブメントに干渉しているみたい。その事を水谷さんに伝えると、ムーブメントとケースの間に金属リングをかませてかさ上げするという追加加工。これで問題解決してその後止まることなく時を刻んでいます。プライスレスなスイス庶民派ビンテージ時計。

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プラチナプラチナ。60年代後半にプラチナ社が作ったプラチナペン先の万年筆。私の知る限りニブの素材がプラチナを使った万年筆は他にしらない。硬いけれど鋼のしなりを感じた鍛造ニブにた独特の書き味。軸もその時代の日本の職人に卓越した技術を感じるスターリングシルバーの絞り上げで作られている。日本が誇る傑作万年筆だと私は思う。

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これは私のお宝です。禿げた私の還暦用ではありません。パターンの面白さを教えて頂いた金田さんがデザイナーの幼稚園児が描いたような走り書きから発想したベレー帽。この複雑な突起は摘めば良いとまず考えがちだ。しかし、素材は当時仕入れ値でメーター1万円以上したイタリア製シホンベルベットを使うので取り都合が大事。そこで龍が天に昇るようなパターン一枚で2つ裁断し、それAとA BとBというように縫い合わせてこの形状を生み出す。その現場に立ち会った私は魔法を見てるような感動を覚えた。私はこのベレー帽を見るたびに、モノ作りの面白さと明日への活力をもらうことが出来る。

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レンズはこのアルパのKERN-MACRO-SWITAR 50mmF1,8AR。あまりに面白レンズなので日を改めて。

2015年11月28日

シュランケンパパスの3連続の第一弾4色店頭に。

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シュランケンカーフのパパス・ショルダー第一弾が店頭に並びました。今回は4色でトープ、ジーンブルー、オレンジ、アイリス。C.O.U.さんとサークルさんには今日(28日)出荷したので明日以降の販売開始となります。今回シュランケンで11色パパスを作っていて、3回に分けて連続して作っています。次回、次々回ではブラック、ネイビー、ダークブラウン、バイオレット、ゴールド、ライムグリーン、オリーブが登場します。

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あっそれと、前回製作したゴールドとバイオレットも少し在庫が有り店頭に並んでいます。

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ここが好きです。内縫いのふくよかさはパターンと縫製技術の融合から生まれた特別。

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私の使い込んだライムグリーンのシュランケンカーフのパパス。手放せない愛着感じています。

パパスはフィット感が最大の魅力です。ショルダーベルトを短めにして腰あたりに本体部分がくるように襷掛けするとその魅力を最大限体感できると思っています。お尻より下あたりまでベルトを伸ばして提げるとだらしなく見えるし、歩行中の腰より下の揺れがバッグの重さを助長しフィット感を損なう。シュルダーベルトを短くして提げる事に抵抗がある人は多いけれど一度短くして襷掛けしてみてください。驚くほど楽になりますよ。格好的にも荷物がそんなに入らないボディバッグをファッションで提げる時代ですから大丈夫。

2015年11月27日

こいつは面白い「1998年式アルファロメオ145クワドリフォリオ前期型」

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多車線の国道の赤信号で最前列でブレーキを踏んだ。隣にブイブイ言わせながらスバルWRXが並んだ。年甲斐もなくスタートダッシュの体感スピードが自慢なので勝負してみようかと考えてしまった。同じ2000ccで馬力は倍ある(ターボが付いているから)モンスターではあるけれど車重はマイ145の方が軽い。こっち本気で向こうは全然その気ないだろうから100mぐらいの距離は前をいけるかもと。青になってダッシュ、ボディの薄っぺらさを感じる軋みを感じながらアクセルを踏み込むと体感だけはゼロヨンモンスター。でも〜あれれぇ〜一瞬にして勝負は決した。数秒後WRXは遥か先を加速しながら消えていった。やはり145のスピード感は体感だけだったのか。でもそれが病みつきになる可愛い奴。

先週明石を散歩していたら珍しくアルファ145を発見し嬉しくなった。本当にここのところ見なくなったなぁ〜。

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後期型なので2000年以降で私の前期型より新しいのに、フロントのエンブレムが剥げてる。珍しく同じ車と出会えて嬉しかったけれどこれはいけません、アルファロメオのオーラが消えてしまうと私は思う。このエンブレムさえ綺麗であればどんなにアルファレッドの塗装が変色していても、誇り高きアルファロメオで居続けられると思うボンジョルノです。

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それにしてもこの車にはアルファロメオとクワドリフォリオのマークが過剰に目立つ。その訴えるような思いが切なく感じる。

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クワドリフォリオ(四つ葉のクローバー)はアルファロメオのスポーツ心を象徴する証。フェラーリの創業者がまだアルファロメオのレーサーだった頃、レース前に貴婦人から四つ葉のクローバーをもらったという逸話から生まれたクワドリフォリオマーク。

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シートのファブリックにもアルファロメオの文字の羅列。これはそうない自己主張。

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フロントだけでなくどのガラスにもアルファのエンブレム。アルファロメオ156をこよなく愛するル・ボナーのお客様のフロントガラスが飛び石で割れてしまった。交換修理に出したらこのエンブレムが付いていないフロントガラスだったと嘆いておられたのを思い出す。

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現行のアルミホイールの色付きアルファマークよりこの方が。

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カセットデッキの蓋にも。

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こんなところにも。

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ハンドル中央はどの車もあるけれど、この素敵なエンブレム下のレザー風ビニールは縮んで縁は剥がれ始めている。

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ペダルにまで付いてる。この左端のクラッチペダルがグラグラになり部品入手まで1ヶ月半。

ここまで自己主張しなくてもこの車の魅力は重々感じている。ポンコツだけど憎めない大人の玩具。この数ヶ月アクシデントが連続したけれど、その事で逆により強い愛着を感じるのでありました。車を移動の道具と思わなければこんな面白い車はそうない。

2015年11月25日

ル・ボナー物語 後編

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ル・ボナー物語 後編

 

 個人で鞄作りしている職人は、お店を持つ事が一番だと思っていた。だって作った品を上代でそのまま売る事が出来て、生産効率の悪い職人には利益幅を大きく取れるのだからと。でもパソコンが普及して、そうとも言えない状況になった。ネットを通じて売れば家賃などの固定費いらずで、上代販売が可能になった。その上接客という時間が省略されて、生産時間に多く費やせる。確かにこの方が小規模な製造小売り業には良い方法かもしれない。でもお店を持てて本当に私たちの場合は良かった。多くの人と生身で知り合う事が出来た喜び。このお店も十九年目を迎える。特に夫婦二人だけのル・ボナーになってから九年の間に多くの人たちと知り合う事が出来た。この事は私たち二人にとってル・ボナーのカタチを残す事と同じレベルで、大事な大事な宝物。だからお店を持てて良かった。

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 1993年に神戸の埋め立てて作られた人工島・六甲アイランドの、安藤忠雄事務所の設計したショッピングビルの片隅に、革製品のお店兼工房の「アウム」を出店した。今は30坪以上になっているけれど、当時は8坪のお店。それでも十分幸せな空間だった。その8坪をお店と工房で半分に区切って使っていた。今の店舗部分がその8坪。なので現在はその後増床した12坪が工房部分だ。二人しか作業しないのだから、もっとお店部分を広くすると普通思うでしょうが、これが私たち二人の最大の贅沢。この仕事場が一番心休まる場所。隣りの革&鞄の在庫置き場兼裁断場所兼自転車展示室?へも直接行けるように、セメントブロックの壁をぶち抜いてドアを付けたいなと今思案中。

  地方都市・神戸で、それも神戸の中心の繁華街からは遠いこの人工島・六甲アイランドでお店をして売れるだろうかという不安はあった。でも窓越しに四季折々の変化を感じながら鞄作り出来るこの場所が気に入った。7年前の聖蹟桜が丘のお店も窓越しにいろは坂が見えた事が素敵だった。一日の変化を感じ取れない室内での作業は無理な私たち二人です。

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 オープン当初はオーダー中心のお店として始めた。革小物からトランクまで何でも受けた。それも一点作りなのに既製品並の価格で。すると思っていた以上に注文があり、すぐに2年待ちのバックオーダーが溜まった。しかしそんな風にお客様の要望に応えるモノ作りは、私たちは向いていないと途中から感じ始めた。贅沢な事なのかもしれないけれど、私たちは私たちのカタチを生み出す事が、この仕事を今まで辞めずに続けて来れた理由なのだと気づいた。

 そんな事を悶々と考えながら目の前の完成予定日が迫ったオーダーをこなす日々。そんな時阪神大震災が起きた。その時私たちは14階に部屋を借りていて、びっくりするぐらい揺れた。テレビが部屋の端から逆の端まで転げ、食器棚は何度もジャンプしたのだろう、入れていた食器が全部落下してそれが食器棚の下敷きになって重なって割れている。ピアノもジャンプしていた。明るくなって急ぎお店に行ったら、お店の被害は軽微だった。しかし電気も止まり全てが停止状態。しかたなく実家のある加古川に家族で避難した。しかし何もしない日々がこれほど苦痛だとは思わなかった。電気だけは使えるようになったという情報を聞き、いてもたってもいられず急ぎ機能不全の六甲アイランドへ戻った。そして電気だけは回復した工房で、ひたすら鞄作りする日々が始まった。お客が来る訳ない状態だけど、2年分のバックオーダーがある。それをひたすら黙々と作り続けた。その時の仕事への没頭具合は今まで経験した事のない集中力。私にはどんな時も最後は鞄作りしかないのだとその時痛感した。おかげで2年分のバックオーダーは半年ほどでこなしてしまえた。あの時の鞄作りへの集中力は何だったんだろ。

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 あの時期、震災だけでも大変な危機だったのに、オウム事件のダブルパンチ。あの頃のル・ボナーの屋号は「アウム」。その上麻原彰晃の本名は松本で、、関連企業ではないかと噂された。「オウム真理教だろぉー!」と怒鳴り込んで来た輩もいた。全然関係ないのに、まったくもって迷惑至極。それで後に屋号を「ル・ボナー」に改名。フランス語で「幸せにな〜る」。商標登録もしています。

 その後八坪のお店は隣りのスペースも借りて20坪に。そして落ち着くといけません。またまた私の上昇志向?が顔を出してきます。今度は自社工房生産システム。プチ・エルメス的な革製品作りに挑戦したいと。職人希望の若者を一人前の職人に育て、自社内での生産規模を大きくし;オーダーでの制作も受けながら既成の製品のラインナップの充実したブランドを目指すという構想。これが成功すれば古い体質の鞄業界に少しは刺激を与える事が出来るのではとも考えた。

 しかしこれがまたまたル・ボナーを窮地に追いやった。最大時で三人の職人希望の若者を雇い入れた。自分の経験から給料はちゃんと払いたかった。その事で毎月80万ほどの経費が必要になる。それに見合う製品を作り出せれば良いのだけれど、5年ほど続けたがそれが最後まで出来なかった。

 修行という名目で小遣い程度の給金で働かせ、技術を習得したらいつか独立してやるぞと思わせる緊張関係の中からでないと、経済的にも成立する職人は育たないのだとその時思った。まあどちらにしても私の甘さが主原因。皆で同じ目的に向かって力を合わせる文化祭の乗りで仕事出来たら良いなと思っていたのだけれど、私の能力では無理だった。それでその試みは終わらせた。借金だけが残り、2003年の初春からはハミと二人のル・ボナー。

 9年前からル・ボナーは二人でやっています。従業員がいた頃に販売チャンネルを増やす為に、三宮に二店舗目も出したけれど閉めました。三宮のお店の方が売り上げが出る可能性が高く、六甲アイランドのお店を閉めて神戸の中心地の三宮のお店の方だけにしようかとも考えたのですが、売り上げ以上に心地良さを優先して六甲アイランドのお店の方を選びました。六甲アイランドという人工の街は、今では益々寂しい街になり商圏としては最悪な街となっております。一緒にこのショッピングビルに19年前に出店したお店の中で残っているのはル・ボナーを含めて数件。夜ともなると高架を走る六甲ライナーからこのショッピングビルを見ると、ル・ボナーの灯りだけが見え、まるで野中の一家屋みたいなどと言う人もおります。でもこの場所が居心地良い。そしてそんな惨状を持ち前の応用力駆使し逆利用。おかげさまで3年前に隣りの空き店舗もル・ボナーになって、現在の広さ30坪のスペースになりました。でも世の流れは奇跡?を生む。19年前に借りた8坪の家賃より、今の30坪の家賃の方が安いという現実。なのでモノ作りしている人で、個人的に集客出来る自信があってお店を探している人がいたら、是非このショッピングビルはいかがでしょうか。安藤建築のオシャレなセメント打ちっぱなしビルは空き店舗いっぱい。お仲間募集中〜。

 二人になってから借金返すまではよく働いた。どうも人はお尻に火が付くと、能力以上の力が発揮出来るようだ。格好つけてたら焼け死んじゃうよぉ〜。しかし落ち着くといけません。今度は老化です。二人とも勉強しなかったから目は抜群で、私など自動車免許の書き換え時の目の検査では、後ろに並んでいる距離からでも検査用の一番小さな記号が見えるほど。その反動で老眼が極度に進んだ。これが鞄作りの制作スピードに大きく影響する。若い人には分からないと思うけれど、これは職人人生において一大事です。本当に数をこなせなくなる。

 そんな事もあり今はサンプルを主に作り、それをこれまで右往左往しながら鞄職人を35年間やって来た間に知り合った、信頼出来る職人さんに量産をお願いして作ってもらっている。

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 この業界は瀕死の状態だ。少しでも工賃が安い海外に生産が移っていて、メイドインジャパンと記してあったとしても、海外で大部分の作業を終わらせ、最後の組み上げだけを日本でするというパターンもいっぱいある。なので日本に残る量産職人さんも丁寧な仕事をする職人さんより、数を上げられる職人さんが大事にされる。でも賃金の安い海外生産と比較して考えること事態が無理がある。日本人の丁寧な職人仕事を次世代まで残す為にその仕事に見合った工賃を支払い、その結果価格が上がったならその価格でも売っていける価値を生み出す工夫をすればいい。上から価格が決まっていくのでなくて下から価格が決まって行って、それでも価値を感じてもらえる鞄作りが出来たなら、日本の鞄業界の未来が見えてくるはず。

 そんな事を思いながら新作のカタチを二人で考えています。まずル・ボナーらしいカタチを創造しパターンを起こす。その過程で部材のチョイス。そしてサンプル制作。途中で修正点が生じたら、その都度型紙を作り直しパーツを裁断。そして出来上がったサンプルに不満があれば作り直すか没にする。そのサンプル作りをする過程では、量産する時にスムーズに仕事がこなせるであろう製造過程も考えながら作る。そして作ろうという最終サンプルが出来たら、量産をお願いする職人さんにもう一度サンプルを作ってもらう。その結果数を作る側の希望を聞き、頼む私たちの方の要望と折り合いをつけた後量産を頼む。職人さんによって得意不得意がそれぞれ違う。なので長所を最大限活かせる職人さんを、カタチによって変えて頼む。工賃は職人さんの要望通り払う。そこで値切ったら良いものが生まれない。その事で売れるであろう希望価格に収める事が出来ない場合は、利益を圧縮して希望価格に近づける。

 ル・ボナーのカタチの量産をお願いする現在のモノ作りの手法には賛否両論ある。本来は独立系鞄職人なのだから、自身で作った品を販売していくべきだと言う人もいる。それも一理あると思うけれど、作りたいカタチの創造と制作スピードの均衡が取れなくなった今の私たちにとって、これからも死ぬまでこのお店をここで続けられる方法はこれがベストと考えた。ル・ボナーのカタチを私たち二人が今より歳を取った後でも作り続けて行く事が出来る為に。だって俺たちは貧乏過ぎて、国民年金も払えない時期が長くてギリギリ25年で月の支給は4万円也。なので一生働かないといけません。

 量産をお願いするという現在のル・ボナーの生産方法において、在庫過多、売り上げ規模の拡大、雑務が増える、といったリスクはあるけれど、35年間二人で鞄職人を続けていて今が一番平和で楽しい日々を過ごしていると二人でよく話す。

  我が家には大事な家訓がある。経済的にどん底の時にハミが東京府中の借家の襖に書いた言葉。「心の貧乏人になるな!」。

 私が右往左往しながら鞄職人の道を彷徨した年月を共に歩いた相棒のハミ。金銭的に苦しい時多々あった年月だった。精神的にも相当追い込んでしまった年月でもあった。でも鞄作りが好きだったから彼女は一緒に迷路を歩いて来てくれた。喧嘩もしょっちゅうした。「出て行くならあなたが出て行きなさいよ。このお店は私がしますから。」と捨て台詞。好きな鞄をゆっくり作れる環境をハミに作ってあげたいと今思っている。間違いなく私よりハミは本物の鞄職人だ。一緒にこの道を35年歩めた幸せを思う。

2015年11月24日

ル・ボナー物語 前編

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「鞄談義Ⅱ」完成を記念して前回の鞄談義ファーストの私の書いた部分の一部を画像を加えてアップ。

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ル・ボナー物語 前編

 

 この本を作るのは古山万年筆画伯が言い出しっぺだ。去年の「古山画伯と行くスペイン・スケッチ旅行」の折、「鞄好きが集まって自費出版で本を出そうよ」と言い出した。それに何人かの鞄好きが半強制的?に参加した。しかし古山万年筆画伯の裏付けのない?情熱には感心させられる。損得を考えたら近寄らない方が無難だ。でも楽しいから関わってしまう。そして原稿の締め切り日が来て原稿を送った。そしたらボンジョルノに頼んでいた原稿用紙五十枚分の「業界物語」がないよぉ〜んとメールが。「エ〜そんな枚数俺書くのぉ〜?」。急ぎ打ち合わせまでの数日の間にその長文を書き終えないと。で今書き始めております。今回の本の参加者は。私以外は皆鞄大好きおじさんたち。それも相当偏った皆様方だ。なので作り手代表としてユーザーが知らない鞄業界の実情を書きたいと思う所存です。と言ってもそんなに知っている訳ではない。でも手作り鞄職人したり、鞄ブランドの企画で勤めたり、量産の鞄縫製職人したり、自分のブランドを問屋のネットワーク使って売っていたし、独立系鞄職人(これは私がブログで使い始めた造語)もしているし、革製品輸入業もやろうしているマルチタイプの鞄職人人生を三十五年続けて来た。だいたい職人はその道一筋の口数少ない頑固タイプというのが世の相場。そうでないボンジョルノ松本が、自分の半生を振り返りながら、原稿用紙五十枚書いてみようじゃありませんか。

 

 1975年19歳の僕は悶々としていた。高校時代勉強らしきことはまったくしていなくて劣等感だけの若者だった。小学校の頃はそれなりに優等生で成績優秀だったけれど、それ以後はひたすら下降線を辿った。唯一高校時代に没頭出来たのは読書。授業中も読んでいて、普通の小説なら一日2冊ほどを読む。劣等感を払拭する生き方を僕なりに探していたのかもしれない。でも試験勉強はしなかったし出来なかった。なので一浪して予備校生だった時も、神戸の須磨海岸で一日中本を読んで過ごしていた。当然大学進学は無理な事で、悶々と自分の未来を憂いでいた。

 そんな時姉の買っていた「ノンノン」というファッション雑誌を見ていたら、手作りの人たちの特集記事に目が止まった。焼き物、家具、アクセサリー、鞄、革小物など。学歴など関係ないモノ作りの世界。それも当時手作りブームで、原宿の表参道界隈ではそんな作りが洗練されていないヒッピー(日本ではフーテン)くずれの人たちが作って売るアクセサリーの露店が何軒も出店しているという。これならいけると思い東京へ。それも軽薄軟弱な僕は、その雑誌で紹介されていた中で、素人でもすぐに作れそうでアットホームな感じがした赤坂にあった鞄作りのグループへ。

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 その頃夢だけで生きて行けると思っていた。だから無給ならばいいけどと言われ。喜んで加わった。19歳の春だった。その頃その手作り鞄のグループは、赤坂の小さなビルの半地下の駐車場をしきった部分を工房にして鞄を作っていた。その工房も不法建築だっただろうし、トイレはそのビルのダストボックスの収集部分に水洗トイレを設置していた。いつも上からゴミが落ちて来ないかと心配しながら用を足していた。私が加わって4人。鞄作りは直ぐに覚えた。35年以上経った現在本拠地を青山に移し、今も変わらず同じレベルの鞄をそのグループでは作り続けている。これは凄い事だ。それも規模拡大しながら。

 そこには2年ほどいた。貧乏だったけれど楽しかった。途中から給料も少額出るようになった。しかし1977年結婚を期に独立する事になった。相棒は文化服装で本格的な鞄作りを学んだ四歳年上のハミ。僕の裏付けない夢を信じて一緒にスタートした。世の中バブル景気に浮かれ始めた頃。ユーミンの曲が街には流れていた。しかし私たちはそのバブルの恩恵を得る事なく過ごし、バブル景気は知らぬ間に終わった。

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 お金もなければコネもない。問屋に大量に卸して売ってもらう生産力もない。今ならネットを使って売る方法があるけれどその時代にはない。ないものだらけで、あるのは体力だけ。それで鞄屋さんへ卸していた。その頃一日16時間仕事していた。しかし鞄の価格はお店で売っている他の大量生産の日本製の鞄並みの上代でないと置いてもらえなかった。その頃作っていてよく売れたのが手縫いのトランク。戦前のトランクより作くりが甘くていい加減な部分多くあるトランクだけれど、その頃世の中になかったからよく売れた。戦前はこれより小さなトランクが大卒の新入社員の初任給ほどしたという。だから採算が成り立つ鞄。それを僕の手元に入るのが3万円ほどで作っていたのだから売れるよね。でも働けど働けどわが生活楽にならずの主原因。そんな日々を27歳頃まで続けた。その頃そんな鞄作りしていた私たちだった。素人に毛が少し生えただけのそんな僕たちの作る鞄を、置いてくれたお店や買ってくださったお客さまたちに感謝しています。そんな日々が僕たちを育ててくれた。

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  転機は1983年の27歳の時に訪れた。東京多摩の聖蹟桜ヶ丘のショッピングセンターにお店を出さないかという話しが舞い込んだ。ショッピングセンターの二階の三坪ほどの本当に小さなお店。でも保証金なしで自分たちのお店が持てる。願ってもない話しだった。今までだって四畳半の仕事場で二人作っていたのだから、共有部分の通路も利用すれば十分工房兼用のお店でいける。小さいけれどかけがいのないお店を持つ事が出来た。

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 そしてこの時期多くその後も親しくしている仲間や先達と知り合う。僕たち二人は世間知らずで技術力が劣る鞄職人だった。しかし多くの人たちと知り合い教わり、それを反芻し少しずつ成長した。このお店を紹介してくださったインディアンジュエリー作家の村田ご夫婦は今も最も感謝するご夫妻。手縫いの藤井さんにもこの時期に村田さんに紹介され、知り合って衝撃を受けた。靴業界の御意見番の長嶋さんとも、この同じショッピングセンターにその時期企画されたアシックスの「ペダラ」ショップを出店していた縁で親しくなった。そんな先達たちに教わり助けてもらいながら僕たちの鞄も成長した。ジブリの「耳ををすませば」はまさにその地域が舞台。あのアニメを見るたびにあの頃の楽しく充実した日々を懐かしく思い出す。 

  しかしそれも3年ほど。どうも私は欲望が強いようだ。成城駅前にお店を出さないかという話しが飛び込んで来た。あの高級住宅地の成城です。田舎者で世間知らずな僕には、ステップアップのチャンスだと思った。丁度二人目の子供が生まれ産休中のハミに相談なしに勝手に店舗移転を決行した。そして半年で失敗。全て失って一から出直し。

 その後長嶋さんの紹介で、ワールド、三陽商会、リーバイス、オンワード樫山など名だたるアパレルメーカーの仕事をしたけれど、その当時自分たちで作る手段しか知らなかった私たちは、その業界の生産量とスピードにあたふたするばかりだった。今なら一財産が作れていただろうけれど。

 三菱商事のフットウエア事業部のアドバイザーみたいな事もしたりして、日本に入ってくる前のアメリカブランド「コーチ」にも少し関わった。まるで世間知らずで来た私には別世界。でもこの時業界の生産システムや鞄のビジネスの流れを初めて知った。でも経済的な部分ではこの頃どん底だった。

  そんな仕事つながりで老舗鞄問屋からオリジナル高級鞄ブランドを出さないかという話しが舞い込んだ。展示会ごとに新作を出してというもので、日本に高級鞄を根付かせるという趣旨に乗った。ブランド名「アウム バイ ヨシキマツモト」。

 そしてその時初めて高級輸入革問屋の「サライ商事」を紹介してもらった。革好きな私ではあったが、それまで使った事のない素晴らしいヨーロッパの革たちと、その時初めて出会った。牛革の場合半分に裂いた半裁というアメリカ原皮を使った日本の革しか知らなかったそれまでの私には、伸びる縁と呼ばれる部分を原皮段階で取り払い使える部分だけなめしたこのヨーロッパ皮革文化の奥深さに感動を覚えた。その後もその時使っただけで、お店を持つまでは良いのは分かっているけれど高価で使えなかったけれど、今は大半がサライ商事経由のヨーロッパ皮革を使っている。使えるようになったのが人一倍嬉しくて、いつも在庫過多状態のル・ボナー。

 しかし自分たちで作るという事は相も変わらず同じだったので、忙しいばかりで実利は同じで少ない。その時強く思った。お店が欲しい。上代がそのまま収入になったあの聖蹟桜ヶ丘時代が一番良かった。今ならあの頃より相当技術も進歩したから、もっと良いはず。でもお店を出す為の資金が捻出出来なくて、現状の中で右往左往。

 その頃作っていた鞄が枠を使ったカタチ。ボストンバッグにダレス。それに棒屋根や大割れなどクラシックな風情の品々。手間が正比例でかかってしまう品々。

  そんな日々が続く中で生活は厳しさ増すばかり。それで窮して就職する事にした。就職する会社は大手商社がバックアップして生まれた会社。世界で通用する鞄を軸にトータルに商品を展開する、今までになかった日本のブランド。デザイナーに国際的なモデルを経て、その後ヨーガレールのサブのデザイナーをしていた林ヒロ子さんを擁して始まった。そこの企画担当としてデザイン画から、パターンを起こしサンプル作ってメーカーさんと打ち合わせする仕事。日本の鞄ブランドの大部分はデザインだけで、後はメーカーさんに丸投げする。その場合微妙な案配をコントロールする事が出来ずに特別は生まれにくい。そんな手間をあえてかけて生まれた鞄たちは特別な輝きを持った高級既成鞄だった。

 その時パターンの奥深さと面白さを教えてもらった。一緒に企画を担当していた金田さんはパタンナーとして天才的だった。元々洋服のパタンナーだった氏は、生地と違って厚みも計算に含み込まないといけない革製品のパターンは面白いという。三角関数を駆使して生まれたグッドデザイン賞をもらったラグビーボール形状のバッグたちのふくよかさは、氏の能力なしには生まれなかった。ル・ボナーの内縫いのバッグのふくよかな表情を生み出すパターンと縫製方法はあの時の影響大。その金田さんが作ったイタリア製のシホンベルベット素材で作ったベレー帽の形状はその才能を遺憾なく発揮している。突起が連続したこの形状が竜が天に向かうような一パターンで二つのパーツを裁断し縫い合わせてこのカタチが生まれる。端切れがいっぱい出そうな形状なのに出ないで作れる。これには感服した。

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 そんな風に今思い返しても、あの時が一番面白かった。お金の心配せずに鞄作りに没頭出来た。その上予算規模が十分あって全て豊かで楽しいクリエーティブな日々だった。多くの事を吸収出来た。初めてメーカーさんに量産をお願いする道筋も、その時初めて実際に経験した。3年後に黒字変換出来ればこの魅力的な職場にずっといられるはずだった。しかしバブル景気は終焉を迎えつつあり、バックアップしていた大手商社が倒産し、日本から世界へ飛び立てたかもしれないそのブランドも終わりの日を迎えた。そして私も元の個人の職人に戻った。

  そんな事態になっても、免疫力が人一倍蓄えられた過去を持つ私はへこたれない。いくつかのメーカーさんとのつながりが生まれ、その一社の仕事を請け負う事にした。その頃凄く売れていたレノマのセカンドバッグの縫製。裁断された部材が持ち込まれ、縫製のみに全力投球。数は200個で一個3000円也。手慣れた職人さんだと一ヶ月でこなす仕事だそうだ。という事は月60万。これは良いと飛びついたけれど、それはあくまで手慣れた職人さんの話しで、量産初心者の私は、一日16時間労働で2ヶ月とその後それの検品後手直しで、計3ヶ月ほどを費やした。その後も縫製量産仕事を何度か繰り返したが、私には厳しいと感じた。そんな経験もしたので、今量産を頼んでいる職人さんには敬意を心底感じながらお願いしている。

 その後また他の問屋さんを通してオリジナル鞄の卸しを再開。バーニーズ・ニューヨークではよく売れたなぁ〜。少し普通の生活が出来始めた頃大きな決断が待ち受けていた。その頃二人でよく将来について話していた。お店を持つという事を諦めて卸しだけでこの仕事を続けて行くのなら、大好きな信州の古民家を借りて、そこで仕事しながら田舎生活したいねと。でもその夢は叶う事はなかった。

 兵庫県の実家に戻った時見た新聞に「神戸海手・六甲アイランドでテナント募集」の記事。それも私の大好きな安藤忠雄建築事務所設計のショッピングビルへのテナント募集ではありませんか。これは応募する価値は十分ある。東京を離れ地方都市・神戸の人工島で待望のお店を持つ事には不安があったが、売れなければ卸も続ければなんとかなると決断した。その後の開業資金集めは大変だったけれど、これで七年のブランクを経て待望の工房兼お店に辿りついた。7年前に比べて技術的な蓄えも多くの先達から吸収しているし、もう失敗は繰り返さないと誓いながらお店を神戸の離れ小島に得た。

2015年11月23日

「鞄談義 Ⅱ」販売開始

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大変お待たせしましたが、私も少し参加している「鞄談義 Ⅱ」が販売開始となりました。

店頭ではル・ボナーでも販売していますが、郵送での販売はフェルマー出版社の中谷さん(fuente_pen@yahoo.co.jp)までメールでのご注文となります。宜しくお願いいたします。

(132ページの私の文章より)

この時代に生きた証を残したいと思う。それが私達は鞄作りでした。それぞれ皆持っている資質や環境が違うから、表現するカタチはそれぞれ違う。しかしこの時代に小さな記憶として残せたら素敵だな。隙間少ない息が詰まりそうになる現代社会において、個が輝きを持ってモノ作り出来る価値。芸術作品でも工芸品でもない鞄作りと言う仕事においてそれが出来るなら、私達は心から自分たちの人生に満足できます。

2015年11月14日

名前の付いていなかったキーケースの名前「ポンテ」と決定〜

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名前の付いていなかった新作のキーケースでしたが決まりました。「ポントキーデル」で良いのではというご意見も多かったのですが、イギリスに長く住まわれていた万年筆好きのお客様がネジカン金具のブリッジ部分が印象的との思いからポントじゃなくて「ポンテキーデル」をイメージしたとコメント頂いた。イタリア語のブリッジはポンテ。これは良いのではという事でシンプルにキーケース「ポンテ」とする事にしました。それじゃ面白くないとおっしゃる方は「ポンテキーデル」でも良いかと思います。それほど大層な事ではないですものね。

それにしてもこの「ポンテ」人気があります。100個以上使って完成してからまだ日が経っていないけれど、残っているのは1/3以下。ミコノスとトープは残り1つ。これは大ヒットの予感。それで早々明るめの色メインで第二弾作り始めております。ピンクやターコイズブルーでも作ります。あっ、忘れちゃいけない、スカイでも作ります。他にも色々な色で作りますので乞うご期待。

2015年11月13日

今年も作りました「四角いダイアリーノート用革カバー」

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毎年毛色を換えて作っている大和出版印刷さんが作るダイアリーノート用の革カバーが完成しました。筆記具やノートなどの文房具類は大好きですが販売は大和さんのノート類を少し販売しているだけなので、この特殊な革カバーも主にPen and message.さんや大和出版印刷さんでの販売となります。それでも少しだけはル・ボナーでも取り扱っていますので宜しくお願いします。大和出版印刷さんが万年筆の書き味にこだわってオリジナルで作ったグラフィーロペーパーは特に極細ニブでの書き味で違いが顕著。いつまでも書き続けたくなる書き味に驚かされます。そのペーパーを使ったダイアリーノートの革カバーはル・ボナー製が似合っていますよ。今回も、下敷き変わりにカバーがなるように、芯材を入れて硬い仕上げとなっています。

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大和出版印刷さんのオンラインショップでの販売はこのグレーのエレファント革とシュランケンカーフのオリーブのシングルタイプ。エレファントは哺乳類の革の中で最強で、革の表情も豊かで、貴重品革の中で私は一番好きだな。税込み29,160円。今年、ペリンガー社の社長さんが来日時にオーダーしたシュランケンカーフのオリーブはシック。税込み15,120円。

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Pen and message.さんではこんな感じ。P&Mさんオリジナルタイプの差し込みとペン差し付きタイプはクリスペルカーフのブルーとトープ。ブルーは今後入手しないクリスペルの色です。クリスペルのトープ色はしっとり素敵な肌触り。税込み21,600円。あとダブルとシングルでサイフィアンゴートのブラウン、ダークブラウン、ブルーグレー。今はもうなくなってしまったドイツのタンナーが作ったこの山羊皮はキラキラ光沢を持った特別な革でした。税込み15,120円(シングル)と21,600円(ダブル)。それとイタリア・フラスキー二社のデッドストックしていたカーフでもシングルとダブルを。15年ほど前までのフラスキー二社の作るカーフは他では真似出来ないネットリイタリアンカーフ(革と接し続けた40年で最も衝撃を受けた革)だった。そのデッドストック革でダイアリーの革カバー作りました。18,360円(シングル)と23,760円(ダブル)。という感じでクリスペルカーフのトープ以外はもう出会えない革オンパレード。

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(追伸)

今の私のマイブームは昔?収集した万年筆の中でも極細字ニブでグラフィーロペーパーに筆を走らせる事。私の持っている万年筆の中で最細のペン先は、この田中さんが作った旧万年筆博士。古山万年筆画伯が博士でオーダーするなら極細字ニブと言われてその通り注文した。でもその硬さを楽しめなくてずーっと眠らせていた。でも久々取り出して書きたくなって普通の上質紙に書いたら引っ掛かりを感じてイマイチ。グラフィーロペーパーに換えて書いてみるとおおー気持ち良い書き味。硬い細字が気持ち良く書き続けられる。来年はちゃんとこのグラーフィーロペーパーで作った四角のダイアリーノートと罫線ノートをこのカバーに入れて書き続けようっと。まじまじと見ると、どこか田舎臭さを感じるふくよかさを持ちながらもこの水牛とグリーンのセルロイドのコンビは美しい万年筆だと思う。轆轤成型でここまで精度を持った軸はそうないはず。名人の削った万年筆を引退前に購入していて良かったとあらためて思うボンジョルノでありました。

定番は21mmでまだ名前の付いていないキーケース

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現在名前思案中。ハミは「ポントキーデル」は?なんて言ったけれど却下。今日注文していたネジカンが金具屋さんから届いたので装着中。定番は21mm幅のカンにしました。装着出来る幅は17mmまでです。ご希望により24mm(装着幅20mm)と18mm(装着幅14mm)の同じ形状のネジカンへの交換可。

今回は左から黒、ミコノス、バイオレット、トープ、オリーブ、ゴールド、ホース、ライムグリーン、ジーンブルー、オレンジの10色。税込み5,940円で本格的に販売開始。触感と使いやすさを楽しんでみてください。

2015年11月 2日

まだ名前を考えていない「キーケース」が店頭に並びました。

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コンパクトに鍵が収まるキーケースを考えていました。試作を何度か繰り返しながらようやく日の目を見ました。シンプルでコンパクトだけれど使い勝手良くて、二枚貼り合わせた革の感触が特別なキーホルダー。残心革小物シリーズと共通したコンセプトで生まれたキーケースです。試作を使ってみて早数ヶ月、手放せません。

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このタイプのキーケースはネジ棒式でもっとシンプルなタイプはカジュアルな洋服屋さんなどで売っていますがこれは別物、ネジ棒ではなくてこの金属カンを使うという発想から出発しています。4~5本の鍵が収まります。もっと収めたいというお客様の為、21mmと24mm幅のカンも注文していて届き次第装着予定(現時点18mm)。

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鍵を収めるにはこのカンの棒をプラスのドライバーではずして装着します。収める時は手間取りますが、止めた後はまずはずれる心配はありません。

鍵を収めて止める為の極小ギボシも考慮した結果。ホックだとクッション性のある革の質感が影響して止めにくいと思いギボシに。ギボシは開け閉めは楽だけれど外れやすいという問題があるけれど、その部分に負担がかかる訳ではないし、万が一はずれたとしても鍵は守られるからこの仕様が正解ではないかと。

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現代の車は鍵じゃないみたいなボックス型。これをキーケースに収めるとなると相当嵩張る大きさになってしまう。なのでキーと一緒に持ちたい場合はこんな風にカンのリング部分に止めちゃえばいいかも。どうせ差し込みひねる鍵の所作を必要としなくて、持っていればいいだけの鍵なのだから。

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こんな風にベルトキーと一緒に使っても便利かも。ウエストベルトに付けてポケットに収めて使ったりすると便利。まあ単体で使っても十分。表はシュランケンカーフで裏はデュプイ社のカーフナッパで、重ねた厚みは2,2mm。この重ねと厚みが生み出す触感が良い感じ。

今まで味わった事のないであろう新次元のキーケースを楽しんでみてください。発想をシンプル方向にそぎ落としていって生まれるカタチが好きです。。税込5,940円。名前を考えないと。

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