ル・ボナーの一日

ヒロ子ちゃんが逝っちゃった、、、、、

2006年12月20日

さようなら.jpg 20年ほど前、私達が貧乏だったけれど、お金かけずによく一緒に遊んでいた若い仲間の一人、ヒロ子ちゃんが天国に逝ってしまいました。まだ38歳です。これから蓄えた知識と経験と才能を開花するはずだったのに早すぎます。残念です。 ヒロ子ちゃんに初めて出会ったのは、私達が聖跡桜ヶ丘で始めてのお店をしていた頃。ヒロ子ちゃんは東工大の建築科に入学したばかり、東工大ラクビー部のマネージャーをしていて、小さくて可愛い18歳でした。素朴なヒロ子ちゃんは、怪しげな私たちの仲間と一緒に行動することで、その後のたくましさを身につけたのかもしれない。11人で行った白樺湖のスキーにもひろ子ちゃんは参加してた。あの時がヒロ子ちゃんにとって始めてのスキーだった。 ボーゲンもまともに出来ないヒロ子ちゃんを大丈夫だからと頂上まで連れて行き、転んでいる時間の方が多いヒロ子ちゃんでしたが、頑張り屋のヒロ子ちゃんは最後まで弱音言わずに時間かけて転びながら降りてきた。 東工大の大学院時代、国費で1年間のフィンランド留学を終えて帰国した時も、芦屋カントリークラブの前の芦屋川の川原で猪親子の襲撃に遭いながら一緒にキャンプしたよね。 あの時私達は神戸にお店を出したばかりの時で、神戸の夜景が綺麗に見える六甲山の頂上付近の公園のブランコ揺らしながら、20年後に私はみんなにサンフランシスコ行きの航空チケットに手紙を添えて送る。その手紙には何月何日何時にサンフランシスコのツインピークスで待ってますと書いて。シャンパンのみながら、サンフランシスコの夜景を見ながら、空白の20年の月日のそれぞれの人生を語り明かすために。そんな夢のような計画をヒロ子ちゃんは肯きながらニコニコ聞いていた。 東京芸大の講師をしていた頃、特有の伝統的な住居の調査に数ヶ月、蚤と格闘しながらブータンに滞在した後、ル・ボナーに来てくれて、これからのヒロ子ちゃんの夢を語ってくれた。その頃ヒロ子ちゃんは夢の量に比例して体型がふくよかになっていた。 2ヶ月前、新宿の伊勢丹で卓袱堂の卓ちゃんの個展に、ヒロ子ちゃんは来てくれた。 その時ヒロ子ちゃんは自身の病気を知っていて、闘病中でありながら、古い日本の木造建築の技法を現在の木造建築に生かすため、古い神社やお寺を調査しているところなのと熱く語っていた。これから建築家として花開くはずだったのに、、、、、、、、。 私とハミは、仕事がんばってどこかに土地を買って、ヒロ子ちゃんにデザイン設計してもらった木造の家を建てることを夢見ていました。それも突然、かなわぬ夢となってしまいました。 あの頃の仲間に連絡して、ヒロ子ちゃんが大好きだったお酒飲みながら(ヒロ子ちゃんは大変な酒豪でした)同窓会を開こうと卓ちゃんと話しました。私たちにとって、とっても大事なヒロ子ちゃんの思い出を話します。 笑顔が可愛いヒロ子ちゃん、あまりにも早すぎるよぉ。 ヒロ子ちゃんの38年。私の知ってるヒロ子ちゃんは夢を実現するために一生懸命で、柔らかに美しい人生でした。私たちはあなたとの思い出を決してわすれません。私もハミもヒロ子ちゃんが大好きです。

Le Bonheur (21:07) | コメント(0)

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