ル・ボナーの一日

「ゴローズ」は私の中に生き続ける

2014年01月17日

ゴローズバッグ.jpg

朝ドラ「あまちゃん」で使われていた70年代のゴローズのバッグ。

原宿の「ゴローズ」の高橋吾郎さんが亡くてっていた。それを知ったのはつい最近。一度もお話しした事はなかったけれど、私の半生の中でいつも大きな存在だった。素敵に生きそして死んだイエローイーグルは、これからも私の心の中に爽やかに生き続ける。

私は40年前モノを作って生業としたいと上京した。その頃手作りブームで、表参道ではヒッピー風の若者が露天で作った品を販売していたり、モノ作りのグループが多く生まれていた。そんな中でキラー通りにアトリエがあった「ゴローズ」は特別な存在感を持っていた。同じビルに新進のデザイナーだった頃のコシノジュンコさんのアトリエもあった。その頃革製品とジュエリーなどを作っていた「ゴローズ」は、群雄割拠する手作りグループの中でも抜きん出た存在だった。その「ゴローズ」に加わってモノ作りをしたいと思ったけれど、軟弱な私はその存在感に圧倒されて門を叩く事は出来なかった。

数年後、株式会社「ゴローズ」は解散した。その後私は多くの「ゴローズ」の人たちと知り合った。最大の恩人であるT&Yの村田さんはゴローズ直系のインディアンジュエリスト。パターンの面白さを伝授して頂いた金田さんはゴローさんも一目置く天才パタンナー。その他私が憧れたゴーロズ第2世代のメンバー幾人かとも知り合い影響を受けた。その後駒込にアトリエがあった頃の第一世代の人たちとも関わった。

初めて高橋吾郎さんとお会いしたのはキクチタケオビルのオープンパーティーの会場だった。当時私は三菱商事経由でキクチタケオブランドの仕事をしていて、その縁でそのセレブが集まるバブル時代のパーティーに招待された。その頃私は人生最大の貧乏生活中。それ故にそういった場に臆する部分が多いにあった。そんな会場でゴローさんを見かけた。株式会社「ゴローズ」は解散し苦しい時代。まるでホームレスのような身なりでバイキング形式の食事を食べ颯爽と去っていった。その自身を拘束しない存在感に圧倒された。

その後「ゴローズ」は復活した。ゴローズのジュエリーや革製品は、一人の人間の生き様の迫力の分身として存在感を持っている。原宿の三大奇人の一人と言われたゴローさんは、表参道を錆びたビンテージバイクのインディアンを走らせた。信号で止まるたびにハイドウドウと馬に乗っているかのよう。それが奇異に見えない人だった。

腕が良い悪い、センスが有る無い、売れる売れない、そんな事を超越した存在だった。もう隙間のない現在社会からは生まれて来ない希有な自由人だった。素敵に生き、その生を終わらせた原宿の伝説・イエローイーグルは格好良い。合掌。

Le Bonheur (09:29) | コメント(2)

Comments

  1. 手塚健斗 より:

    コメント失礼いたします。

    その昔、ゴローズの初期に吾郎さんと共にレザー作成をしていた「トモナガ」さんという方をご存知でしょうか?

    私は静岡に住んでいる者なのですが、今お世話になっいる彫金師の方のお父様が吾郎さんと初期の頃、革物を一緒に作っていたそうで気になって知っていそうな方に連絡させて頂きました。

    もしご存知でしたら教えて頂きたいです。
    お願い致します。

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